2017/12/16
城崎温泉を有名にした偉人たち

はじめに
全国の温泉地は3000か所。その中で城崎温泉はランキングの常連です。近畿では有馬温泉と城崎温泉がベスト10圏内です。
一人目 「香川修庵」

この肖像は山県大弐(1725~1767)との説あり
1683年生誕~1755年没。医師(漢方医、古方派)で儒学者。播磨国姫路(兵庫県姫路市)出身。精神疾患の書の記述は当時としては世界最高水準と評価されています。また下記のような名言を残しています。
聖賢の教えはつまるところ、身を修めることが基本であり、身を修めるには無病ということが肝要である。病身では忠孝の道もなすことができないし、ましてや道を人に教えることなどできない
師の後藤艮山は温泉治療を積極的に取り入れましたが、書籍に残しませんでした。よって弟子の修庵が研究を引き継いで書物を残しました。1734年に「一本堂薬選」を出版し、「但州城崎新湯(今の一の湯)を最第一とす」と絶賛。 温泉の良悪の鑑別法を示して、浴法の規則を立て、痔、脱肛、梅瘡、婦人の冷え、帯下などに善いと主張されました。さらに按摩術を病気治療に取り入れるべきと唱えられました。
二人目「柴野栗山」

「近世名家肖像」より
1736年生誕、1807年没。江戸時代の儒学者。1807年に城崎温泉に来て、城崎周辺の名所を広く紹介されました。城崎温泉に来た際、六角形の玄武岩からなる近くの洞が伝説上の動物玄武の姿に見えることから「玄武洞」と名付けられました。

WIKIMEDIA COMMONSより
幼少より病弱だったという栗山(りつざん)は、18歳のときに幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」に入学。当時も病気がちだった。そのため、周囲からは「もう故郷に帰ったらどうだ」とまで言われ、その時に返した言葉が、
死する時はむしろ死するのみ。丈夫ひとたび郷を去りて親を辞せば、あに、学成るなくして、いたずらに帰る者あらんや
「死ぬ時は死ぬだけだ。男たるものが一旦故郷を離れ、親に別れを告げたのならば、どうして学問が成る前に帰れようか!」
と言い放ち、病の薬を買うために着物を質に入れてまで猛勉強を続けた努力家だったそうです。 「昌平黌」での学問があまりに難しく次々と離脱していく中、最後にただ一人残ったのがこの栗山だけだったという逸話も残ります。
三人目 「志賀直哉」

※この写真の著作権の保護期間は満了。 出典:ウィキペディア/志賀直哉
1883年、陸前石巻(現在の石巻市住吉町)に、銀行員の父直温(なおはる)の次男として生まれる。 1913年4月に上京したが、同年8月に芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰る途中に山手線の電車にはね飛ばされ、重傷を負います。東京で入院した後、療養のために城崎温泉に訪れました。
この少し前の1904年の日露戦争により、城崎温泉は「姫路第十師団傷病兵転地療養所」の誘致に成功しています。これにより「怪我に効能あり」と全国に伝わりました。志賀直哉が草津や熱海でなく、城崎温泉を選んだのも無関係ではないと思われます。
この城崎温泉での体験を元に、1917年「白樺」に短編小説「城の崎にて」を発表されました。生死感をつづった文章は近代文学の一つの完成形と評されています。
まとめ
城崎温泉は1300年の歴史がありますが、江戸時代に香川修庵と柴野栗山が、湯治に優れた温泉として全国に知らしめたのが、全国的に有名になる最初のキッカケと言っていいでしょう。 その後、多くの著名人が訪れ、志賀直哉の「城の崎にて」でさらに知名度がアップしました。…歴史がお好きな方へ、豆知識になれば幸いです。
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